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第50振武隊多々良政行少尉(特操1期)の母の手記

昭和二十年五月二十日午後七時十分 「ワレトツニウス」

の無電を限りにあの子は身につけたものの一片さへ残さず愛機もろ共沖縄中城湾の上空から戦艦に突入したのです。その事実を事実としてうべなう心の底から、まだ何処かにあの子は居るようで、一千里、二千里、地球の果てまででもたづね求めたならばあの時のままの姿が見られるようでこの五年間をあの子の死の実感がしっかりつかまれぬままに過して来ました。

(中略)

 「皇国を守る者は自分達である。」とかたく信じてあんなにも当然のことのように若い生命も、胸一杯の希望も絶ちがたい肉親への愛情もすべてのきづなをふりきって、あんなにもほがらかに征ったものを母の私がなぜ涙を見せられましょう。あの子の心を心として「此の度の御奉公こそこの世に生まれて来た政行の使命であったのだ」と励ましたものです。

 火にも水にも母はいましと共にあり 心おくせず征けよ我が子よ この時ぞ命捧げて死ねと言いし 母の心の深きかなしみ

 歌を書き添えた日々の便りに私はあの子の覚悟をたたえこそすれ母の心の悲しみは露ほども知らせたくなかったのです。あの子の死がこんなにも惨めな結果になった今でも「あの子はあれでよかったのだ。信じた道を信じるままに進んだのだからあれでいいのだ」と亡き子への悲しい愛情の中からも私は私一人の心の中であの子がえらんだ死を恨む気にはなれませんでした。あれから五年思っても見なかった種々の世相を見て来た今でもそうです。

 大いなる喜びが我に来たるともこの悲しみの消ゆる時なし。現身にこれが最後と枕二つ並べて汝とい寝し思出

 小学校から中学更に専門学校とながい学生生活に終止符を打つと直ぐに自分から進んで飛行将校への道を選び特別操縦見習士官として家を出る頃にはすでにあの子には戦の重大さがよくわかっていて自分自身が行くべき道もちゃんと覚悟が出来ていたのです。おろかな母はそんなことには少しも気づかないで、二十一のあの子と十九の次男と二人を軍人として同じ日に送り出すことに有頂天になっていました。

 大君の 御楯とならん 男の子 二人ももちて 軍国の母と なりたり

 愈々家を出る前夜何気ない様子でいつも私に話しかける調子で「お母ちゃんは人間の死をどう思う?」とききました。その言葉の中に何となく真剣さを感じて私が平素から死というものに対してもっている信念をそのまま答えました。「僕と全く同じ考えだ、これで安心して行かれる、お母ちゃんは大した哲学者だハハ・・・・・・・」と大きく笑いましたが「自分が死んでも母は決して取り乱してなげくような事はないから安心して征かれる」 と後になって其時のことを戦友の一人に話したと聞いて生きてかえらぬ覚悟で家を出た深い決意を知りました。

 残して行った日記の一節に「祖国のある限り個人の死はない生きる為に死んでゆく・・・・・・・高き精神崇高なる現実我にこの意気あり 諦観にあらず宗教に非ず 空虚なる議論の結果に非ず しかめっ面な思索の結果に非ず 只斯の崇高なる精神により近づかんとする現実の精神なり」
死の高さまで自分を高める為にどれだけあの子は苦しみなやんだ事か、現実のすべての欲望からぬけ切った心境に至るまでのあの子の苦悩を思う時私は涙なしではいられません。

(以下略)

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