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義烈空挺隊のある遺族の談

(昭和51年5月24日沖縄摩文仁の丘に義烈の碑を建立除幕式を行い、多くの遺族が参列した。そのときの一場面)

 その日は突入から31年目にあたる。遺族50余名、戦友約百名、それに自衛隊空挺隊員約50名は、沖縄の北飛行場跡を訪れた。 あの紺碧の洋上に、ひしめき合っている適艦船にむかい、わが特攻機は真一文字に突込んでいったのだろう。台端にある民家の庭に咲くハイビスカスの紅は、流した血汐によって彩られているのかもしれない。
一人の中年の夫人が、付添の若い自衛隊員に語りかけた。

「お蔭様で兄が戦死した場所を弔うことができました。遺骨の代りに紐の切れた鞄と落下傘の紐が届けられましたが、今日はここの土を遺骨の代りに持って帰ります。兄は戦死したとき確か二十三歳でしたが、貴方は同じ位ではないでしょうか」

「僕も二十三歳ですが、昔の人は偉かったですね。自分にそんなことができるだろうか」

「私の息子も同じ年です。息子をみると時々兄のことを思出します。兄が休暇をもらって帰省したのは、四月の二十九日でした。そのとき落下傘降下の話をしてくれましたが、特攻隊になっていることなどは少しも言いませんでした。一晩母と三人、父の仏壇の前に枕を並べて寝ました。翌朝村外れまで見送って別れましたが、それが最後でした。一個月後義烈空挺隊のことが大きく新聞に出て、間もなく兄の戦死公報が届きました。」

 この婦人の言う兄とは、金山清軍曹のことだった。
話を聞いた自衛隊員は、二十三歳ということに強く心を打たれた。

(「帰らぬ空挺部隊」より)

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